トーキョーハーバー

コンサルティングの現場から

定年後に建築士となった祖父のキャリア

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極私的なエントリ。

 

私のキャリアにおいては「プロフェッショナル」というのは一つのテーマになっているが、よくよく考えてみるとこれは母方の祖父の影響が根底にはあると思っている。祖父は戦時中に京都大学工学部鉱山学科を卒業し財閥系の鉱山会社に就職した。恐らく当時は「石炭は多少古くなってきたとはいえ、なかなか無くならないもの」と思われていたのではないかと思っている。終戦時は中国におり命からがら帰国し、その後、教師をしていた祖父の姉の後輩であった祖母と結婚し、北海道や九州などの炭鉱街で暮らした。仕事では労働争議にも巻き込まれ「会社側」の人だったため、一時期は防弾チョッキを着て勤務し、また会社の業績も常に右肩下がりであり必ずしも仕事は楽しいものではなかったようである。40代中頃までは家では「メシ」くらいしか言わないような人であり、また特段の趣味もなく典型的な昭和のサラリーマンだったと聞いている。

 

しかし40代中盤くらいから突然、建築を勉強し始め、独学で建築士の資格を取得し、また実務経験も鉱山会社での経験をいくらか「盛り」(当時は基準が緩かったらしい)、一級建築士の資格も取得した。更には書道や英会話なども始め、書道に関しては相当の腕前まで上げた。勉強の習慣はその後も継続し、私が子供の頃、祖父母の家を訪れると大抵、机で黙々と勉強か書道をしていた。机に向かう姿は今でも記憶に残っている。

 

定年退職をしてからはこの会社では関係会社に再就職することが一般的であったが、祖父はそれには一切頼らずに、一級建築士の資格を上手く使って自分で地元の中小規模の土木会社を見つけ再就職し、土木工事の強度計算などの仕事を行なった。この仕事は楽しかったようである。さらに70歳を過ぎて完全にリタイアしてからもこの土木会社からは仕事を依頼され「バイト」もしていた。たまに家を訪れた際、夕食の席で強度計算の話を無口なりに楽しそうに喋っていたのを覚えている。

 

この一連の話を母から聞かされ、また老後の祖父を実際に見ていると、子供ながらに「会社に頼らずに生きる」ことの重要性とある種の楽しさ、自由さが印象に残った。財閥系の大企業であってもあまりアテにならないしするべきではなく、常に会社に頼らなくても食べていけるようになりたいと思うようになったのである。当時はもちろんプロフェッショナルという単語は知らなかったが、これはある意味で私の職業選択の原点となっているようにも思える。

 

祖父は最期まで書道を楽しみながら90歳近くまで生きた。死の直前、肺の病で殆ど喋れない中、妻と娘二人に対して「私は大幸福者」と書いた紙を見せ、その数日後に三人が見守る中、静かに息を引き取った。病院の外は桜が満開だったらしい。