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コンサルティングの現場から

理系と文系に関する雑感

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何かにつけて理系・文系という分類を耳にすることがある。一方、(あまり出羽守にはなりたくないが)自分の理解では欧米圏では理学、工学、政治学、文学などの学部単位での括りは耳にするものの理系・文系という単位で物事が語られることはないとも認識しており、この概念は極めて日本的なものだと考えている。(またそれは大学入試と高校科目選択に起因しているものだと理解している。)しかし個人的にはこの分類がどうにも雑に見えてしまう違和感を感じることが多いし、そのように感じている人も一定数いると思われる。ひどいときは血液型占いのような文脈でステレオタイプ的に用いられることもある。そこで本エントリでは自分なりに理系と文系に関する考えを述べていきたい。

 

定義に入る前にまずはステレオタイプに関して述べていく。一般に理系と文系のステレオタイプとして、理系=論理、文系=感性、といったものがあるが、これは言うまでもなくナンセンスである。学問である以上、理系だろうが文系だろうがどちらも論理の塊であると思っている。もちろん傾向としては、理系の学問は数字を使うのに対して、文系の学問は言語を使って論理展開することが多いが、いずれにせよ論理があることには違いはない。法学は相当に厳密な論理の塊のように見えるし、一般的には感性の世界と思われる芸術分野の学問ですら、究極的には感性の領域が他の学問よりも多く存在するかもしれないが、基本的には論理的であると認識している。ただしこのステレオタイプが存在しているために、特に科目選択をする高校生の段階で、論理が好きな人は理系を選択するため結果として理系にはロジカルな人が多くなっている印象はある。

 

自分自身は理系とは「神様が作ったものを理解・応用する学問」であり、文系とは「人間が作ったものを理解・発展させる学問」であると理解している。(もちろん人間は神様が作ったものの一つなので、文系が研究する対象のものも究極的には神様が作ったものであるが、神様ー人間という二重構造があるため別物と捉えても問題ないだろう。)理系の学問の研究対象は自然科学が対象でありこれは言い換えると神様が作ったもの、と言えるだろう。その中でも理学は自然のメカニズムの解明を目指しているのに対して、工学、医学、農学、薬学などは解明だけでなく人間社会への応用を目指している。工学部で研究を行なっている知人は理学部は「神様が作ったものを理解する学問」であり、工学部は「神様が作ってくれなかったものを作る学問」と表現したがこれは的を得ていると思っている。神様は鉄と燃焼現象は作ってくれたがエンジンまでは作ってくれなかったので、それは人間が作るしかないのである。一方で文系の学問である法学、文学、経済学、教育学などが研究対象とするものは全て人間の営みによって生まれたものであると言える。また上記の定義で理系は「解明・応用する」と書いたのに対し、文系では「解明・発展させる」と書いた。この背景にある考え方は人間は神様が作ったもの(物理法則など)を変えることはできないため応用するしかないのに対し、人間が作ったものは直接変えることができるため発展させるとしている。またこの見方をすると文系の学問の方が解明よりも実用に重きが置かれていると考えられる。文系の研究対象が人間が作ったものであるということは、その研究対象はもともと何らかの人間社会に役立てる意図が直接的にせよ間接的にせよあって生まれたものであるため、そもそも実用に出自があるといえるだろう。

 

理系・文系という括りを日常生活で何気なく使うことが多いが、一度、そもそもこれらが何を意味するかを考えてみるのも悪くないだろう。それによって発言の精度が上がる。